満ちあふれる豊かさ

 

エフェソ4:4〜13
舛田信一牧師
「すべてのものの父である神は‥?」(6節−8節)これはパウロの信仰告白である。彼は「すべてのもの」と繰り返し述べている。その指し示すところは「こうして時が満ちるに及んで、、、」という1章10節を指している。同時に1章21節の地と天上における「支配」「権力」「勢力」「主権」のすべてを視野にいれて語るパウロの祈りでもある。教会はキリストの贖罪の御業を世に示し、このメッセージを地の隅々にまで満たすために昇天されたことを聖句は教える。
私たちは小さなこまごまとした事に就いて祈るが、壮大なるキリストの御業が成就するために祈っているだろうか。主は「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るように命じられた。限定された小さな思いの中でキリスト教信仰を理解しようとしたら間違ってしまう。キリストの遠大なご計画とみ心からわたしたちの信仰を考え見直す必要がある事をこの聖書の箇所は教えているように思う。
「すべてのものの上にあり」「すべてのものを通して働き」「すべてのものの内におられ」「すべてのものを満たすために」今も天において働いていまし給う御方キリストを見つめなくてはならない。(ヘブライ12:2)
パウロは詩編の1節を引用し「高い天に上られ」戦勝の賜物を要求する王としてではなく、「勝利のキリストは人々に豊かに賜物を賦与される御方」として表わされている。
教会は賜物(カリスマ)を神から豊かに与えられた人々であり、その特徴は、?選ばれた自覚と信頼、?キリストを主と仰いで生きる姿勢、?罪赦されて義とされたという確信に立ち、?キリスト我がうちに生きておられるという認識である。ここにしっかり立って進もうではないか。