メッセージ・あかし」カテゴリーアーカイブ

「主を捨てた民」  舛田基一牧師

聖書 イザヤ 11-10

何故、お前たちは背きを重ねなおも打たれようとするのか。

頭は病み、心臓は衰えているのに。

打ち傷、鞭のあと、生傷はめぐわれず、包まれず 油で和らげてもらえない。

 イザヤ書は15預言書の冒頭に位置し預言書の゛創世記゛と呼ばれるほど内容は豊かで読む者を圧倒する。

厳しい裁きのメッセージから始まるのだが、その背後には罪で傷つき倒れている民への慈愛に満ちた神の眼差しがある。

 神を捨てたのは民〔私たち〕である。

にもかかわらず神は決して捨てようとされない。

忍耐を示し助けを与えようとされる。単に責められるだけならば、人は決して変わらない。かえって開き直り反抗するか委縮するか逃げるか。

そんな救いようのない私たちから神は離れない。愛を示されるのだ。

6節「油で和らげ・・・」

良きサマリヤ人は惜しみなく持っていた油を差し出した。

傷ついたまま生きることは神のみ心ではない。

信じよう。

傷ついた大地も人もすべて神は癒し回復させてくださると。

神の物語は罪で終わらない。

神の救いの情熱、神の本気さが預言書には溢れているのだ。

「完全な者になりなさい」

 

 


 
 「完全な者になりなさい」 舛田基一牧師

 

聖書 2コリント13章11-13節

  終わりに兄弟たち。喜びなさい。

  完全な者になりなさい。励まし合いなさい。

  思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。

 

1.どんな状況でもなくならない「喜び」なんて

あるのだろうか?

聖書はいつも喜んでいることができると約束

する。本当だろうか?

すぐに消えたり失われたりするとしたら、

それは聖書がいうところの喜びではないとい

うことだ。

 

 喜べないことは日々ある。おもしろくない

こと、思い通りいかないことだらけだ。しかし、

私たちの事情によって左右されるような喜び

のことではない。気分でもない。

 

私たちにとって人生最大の最高の喜びとは

何か。それは主イエスの救いを受けたという

ことではないか。こんな私が、汚れきった罪人

が救われた。あり得ないことが私の身におこ

った。

 

救いのしるしは体と心と魂に刻まれているのだ。

救われてから、一度もそのしるしは消えなかった。同じ喜びが続いているのだ。

 

「敵を愛しなさい」  舛田基一牧師

聖書 ルカ 627-36

 

   しかし、わたしの言葉を聞いている

あなたがたに言っておく。敵を愛し、

あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

 

敵を愛すること 敵に親切にすること

好き嫌いの感情に従っている限り、敵を愛す

ることはできない。自然に生まれてくる感情

レベルの話ではないということだ。腹がたっ

たから?した。

むかついたから?してやった。当然の権利の

ようになってないか?

 

相手に対する良くない感情を自分の行動基準

にしている限り、キリストの言葉は単なる理想

で終わってしまうだろう。

 

キリストは無理難題を言われるお方ではない。

信じ難いが・・お言葉ですから網を降ろします

〔ルカ5章〕という態度さえあればよいのだ。

 

できるできないの問題ではない。神の命令とし

て受けとめることだ。

決心することだ。

 

私たちの側で勝手に無理だ、あり得ないと決め

つけてはならない。

自分の小さな感情世界を超える生き方がないと思ってはならない。

キリストに出会う時、私たちは古い自分の生き方が

揺さぶられ新しい生き方へと導かれる。

新しい生き方(キリストに従う)は本当に楽で自由だ。

怒りや憎しみに生きないことは本当に感謝なことだ。
怒っても罪を犯さない〔エペソ426〕人は本当に神の国の民なのだ。 

「漁師を召されるお方」

 

「漁師を召されるお方」 舛田基一牧師

 

聖書 ルカ5章1-11節

 沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。

 

?     主イエスの命令は徹夜で疲れていたペトロ

たち漁師にとっては常識はずれでナンセンス

なものであった。漁は夜にするものであり、

(深み)は魚がいないのである。

  しかも主イエスは宗教の先生ではあるが、

漁に関しては全くの素人。しかし、ペトロは

従ったのである。

  主イエスの神の言葉は人の生きる現実に対

して’挑戦’と感じられることがある。

  私たちは知らなければならない。

 時に神の言葉は私たちの常識や経験を揺さぶ

る。主のお考えはしばしばわからない。

  しかし、主の言葉に従う時、私たちは大きく

変えられる時なのだ。

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

あなたなら網を降ろすか?止めるか?

今一度考えてみよう。

 

「復活の命に包まれて」

 

「復活の命に包まれて」舛田基一牧師

聖書 ローマ8:31-39

 では、これらのことについて何と言ったら

      よいだろうか。もし神が私の味方

     であるならば、だれがわたしたちに

      敵対できますか。

 

?死の力に対して全く無力であり弱者であった

私たちに、神はキリストを惜しみなく与えら

れた。

キリストを信じるものは十字架と復活の恵みに

あずかる。

 

今はキリストにある私と言えるのだ。

どんな厳しい戦いであっても弱い者であっても

人間的弱さに縛られていても、一旦強い味方を

得るならば負けることはない。要は誰が味方か

を知ることである。

 

人生にキリストをお迎えした。これ以上心強い

ことはない。

 

新共同訳では「私たちは、私たちを愛して下さ

る方によって輝かしい勝利を収めています」

ローマ8章37節

 同じところを”勝ち得て余りあり”と口語訳

聖書は表現した。

力強い訳で私は口語訳の方が好きである。

 

私は弱い、でも

キリストが味方であるならば”勝ち得て余り

あり”である。負けることはない。死に対しても。

ハレルヤ!

    

 

 

 

 

4月の祈祷と聖句

4月の祈祷

私たちにまことの悔い改めを与え、すべての罪と怠りと

過ちを赦して下さい。み言葉に従って行いを改めるために、

聖霊の恵みをお与え下さい。

 

4月の聖句

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

(ヨハネ8章32節)

 

 

 

 

 

 

「こころを刺し貫かれて」  舛田基一牧師


冬から春へ.jpg


冬から春に(ジュニアキャンプの雪だるま)


聖書 ヨハネ19章25-31節

   イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子

とを見て、母に、「婦人よ。御覧なさい。あな

たの子です。」と言われた。


1.主イエスは愛する母を忘れていませんでした。

十字架の苦しみに縛られている状態にありながら、

キリストは自分の痛みや悲しみよりも隣人のこと

を気にかけておられました。

「父よ彼らをお赦しください」

「あなたは私と共にパラダイスにいる」「婦人よ。」

キリストの十字架は切れてしまいそうな゛絆゛を

しっかりと結びつけるのです。神の家族を産みだ

し支えるのは十字架の恵みと赦しです。


シメオンの預言は残酷なものでした。(ルカ2章25節以下)

母として心刺し貫かれたでしょう。

愛する子が生贄(いけにえ)となってしまうのですから。

そんな母の涙を主イエスはすべて御存じでした。

家族のために苦しむ母を主イエスは取り成し、

安心して暮らせる道を備えられました。

  十字架には愛が溢れています。主の十字架を信じ

る者は心刺し貫かれる経験をしても慰められ希望

が与えられるのです。

ハレルヤ!

「労働の意味」

 

 聖書 テサロニケ3章 6-13節

 「主イエス・キリストに結ばれた者として

 命じ、勧めます。自分で得たパンを食べる

ように、落ち着いて仕事をしなさい。」

 

1・静かに働きなさい。黙々と働きなさい。

 落ち着いて仕事をしなさい。

 

 新改訳、口語訳、新共同訳などの訳です。

 リビングバイブル聖書訳ではこうなります。

 「じっくり腰を落ち着けて、まじめに仕事に

 精を出し、自活できるようになりなさい。」

 

 パウロは使徒の権利として、主イエスの

 教えにより(マタイ10章10節)伝道生活の

中で飲食の供与を受ける権利があることを

知っていましたが、彼はその権利をマケド

ニア地方においては福音宣教の妨げとなる

と判断します。

 そして、自らの手で働く道を選びました。

 信仰熱心のようにみえて、実は怠け者が

 大勢いたのです。落ち着きのない生活は

 結果的にキリストを証しすることも、教会の

 働きに益することもありません。

 

 憐れみ深い神様はキリスト信仰に生きる

ものたちの手のわざも大いに祝福してくだ

さいます。何のために働くのか、を明確に

    するとき私たちには落ち着きが備わります。

 

救われるべき名

ほかの誰によっても救いは得られません。

私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、
人間には与えられていないのです。
使徒4:1-13
ペトロとヨハネは、イエス様を十字架で
殺した人々の面前で(感謝報告)しました。
見たこと聞いたことを話さないわけにはいかない。
これが本当の証しです。
事実と経験をそのまま相手に伝える。
義務でも仕事でもない。
主イエスの名が迫害下においても広がり、
その名によって救いのわざが起こった理由の一つはここにあります。
救いはイエス様にある!
イエス様の名そのものが救いのしるしである。
ルカ23:34
イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください。

「手を置いて祈る」  舛田基一牧師

 

「手を置いて祈る」  舛田基一牧師

聖書 ルカ4:38-41

 「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ

 者を抱えている人が皆、病人たちをイエス

 のもとに連れて来た。イエスはその一人一人

 に手を置いていやされた。」

 

?安息日が終わりました。朝早くから主イエスは

会堂で奉仕されましたから、きっと夕方には疲れを覚えておられたでしょう。

しかし、主は働きを休まれません。会堂を出られてから近所のシモンの家で妻の母親(しゅうと)を癒されます。

 休む暇もなく、続いて多くの病人の癒しに全力を

注がれました。イエス様以上に忙しい方はいらっしゃらないのです。

 

4章40節「日が暮れると」は安息日が終わったことを意味します。ユダヤの暦では、一日は夕方から始まります。

参照⇒創世記1章5節「夕べがあり、朝があった」

 

安息日に遠慮していた人々は、安息日が終わってからぞくぞくとイエス様に助けを求め集まりました。

 

本当に助けと癒しを求める人にイエス様は惜しみなくご自身を与える方です。温かな心で接し、触れ、助けの手をさしのべてくださる方です。