
3月の祈祷
永遠の父なる神様 あなたは造られたものをも一つも憎まず、悔い改めるすべての
罪人を赦して下さいます。どうか日々私たちのうちに悔い改めの心を
新たに起こしてください。
3月の聖句
イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは
聖なる者である。
(レビ記19:2)

3月の祈祷
永遠の父なる神様 あなたは造られたものをも一つも憎まず、悔い改めるすべての
罪人を赦して下さいます。どうか日々私たちのうちに悔い改めの心を
新たに起こしてください。
3月の聖句
イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは
聖なる者である。
(レビ記19:2)
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主にあって新春のお慶びを申しあげます。
新しい年も皆さんのご家庭の上に神様の限りない祝福が
注がれますようにお祈りしています。
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写真は、CSサマータイムの朝。
「百人隊長の信仰」 舛田基一牧師
聖書 ルカ 7章1-10節
主よ、御足労には及びません。わたしは
あなたを自分の屋根の下にお迎えできる
ような者ではありません。
この百人隊長は異邦人なのに、ユダヤの長老
たちから信頼されていた。7:5「ユダヤ人たちを
愛して会堂を建ててくれた」ことによるのだ。
ユダヤ人が異邦人の癒しのとりなしを主イ
エスに頼むことは普通考えられない。
主イエスの助けを受けるに”ふさわしい”人物として
高く評価されていたのだ。
しかし、この百人隊長は、自分がイエスの助けを
受けるにふさわしくないと考えた。
だから、主イエスの前に姿をあらわさない。
家まで来てもらうことも。お会いできなくても、
主の助けを受ける道があることを知っていたのか?
それは言葉をいただくというものだった。
兵士が上官の命令<ことば>に従って動く原理だ。
百人隊長は自分の言葉に部下を動かす権威があ
ることを知っている。
国のトップ王の権威を託されていることを。
王が直接兵士に会わなくても、
言葉によって自由自在に兵に命じることができる。
主イエスは父なる神の権威を預かっておられる
唯一の方であると、この百人隊長は信じていたのだ。
謙遜さと霊的洞察力。
私たち信仰者の目標とする頂がここにある。
今日は文書伝道の日でした。


父の日プログラムがありました。

そしてプレゼントもありました!!
聖書 ルカ5:17-26
男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
20節「その人たちの信仰を見て・・」
主イエスが見られた信仰とはどんなものだったのだろう。
「その人たちの信仰」とは行動の中に示されているとこの物語は教える。
信仰はただ漠然と思っている・考えているという事ではないのだ。
目の前の壁を見て諦めるのは簡単だ。
立ち止まり何もせずにじっとしていることもできる。
無理だ、できないと言い訳を並べる事は誰もがしている。
しかし、主イエスが見たのはすべての障害と困難を乗り越えようとする「その人たち」の決意だった。
四人が同じ思いになり、行動を共にするチームワーク。
信仰の仲間たちと迷いを捨て目的にむかってまっすぐ進む。
ただ友の癒しのため。周りの人は彼らの行為を迷惑がった。
信仰とは見なかった。
しかし、主は信仰とみて下さる。
人は悩むと立ち止まる。動けなくなる。
困難を前に、決まった道(方法)はない。
ただ、行き先(主イエス)があるのみなのだ。
信じて前に!
信じて主イエスのところまで!
主のところにさえ行けば何とかなる!

写真は今日の祈りのひととき
聖書 使徒言行録 1章8節
2章1-13節
あなたがたの上に聖霊が降ると、
あなたがたは力を受ける。
突然、激しい風が吹いてくるような
音が天から聞こえ、彼らが座っていた
家中に響いた。
ぺンテコステはクリスマス、イースターにな
らぶ教会の三大祭です。クリスマスは救い主メシ
アの誕生、イースターは復活という新しい命の日、
そしてペンテコステは約束の聖霊が与えられ教会が生まれた日です。
信じる者に聖霊が与えられ、私たち一人一人が
キリストの体なる教会とされました。
私が教会、あなたが教会とされたのです。
古い時代〔旧約〕、聖霊は特別な職務を行う人に
のみ与えられました。祭司、預言者、王です。
神と民の間にたてられ、重要な働きをゆだねら
れました。
新約の時代には、私たちが祭司、預言者、王の
使命を果たすのです。万民祭司、万民預言者、
万民王として。聖霊の力によって、
小さな祭司〔とりなしの祈りを行う〕、
小さな預言者〔み言葉を伝える〕、
小さな王〔管理責任〕の
働きに励みましょう。
聖書 イザヤ 1章1-10節
何故、お前たちは背きを重ねなおも打たれようとするのか。
頭は病み、心臓は衰えているのに。
打ち傷、鞭のあと、生傷はめぐわれず、包まれず 油で和らげてもらえない。
イザヤ書は15預言書の冒頭に位置し預言書の゛創世記゛と呼ばれるほど内容は豊かで読む者を圧倒する。
厳しい裁きのメッセージから始まるのだが、その背後には罪で傷つき倒れている民への慈愛に満ちた神の眼差しがある。
神を捨てたのは民〔私たち〕である。
にもかかわらず神は決して捨てようとされない。
忍耐を示し助けを与えようとされる。単に責められるだけならば、人は決して変わらない。かえって開き直り反抗するか委縮するか逃げるか。
そんな救いようのない私たちから神は離れない。愛を示されるのだ。
6節「油で和らげ・・・」
良きサマリヤ人は惜しみなく持っていた油を差し出した。
傷ついたまま生きることは神のみ心ではない。
信じよう。
傷ついた大地も人もすべて神は癒し回復させてくださると。
神の物語は罪で終わらない。
神の救いの情熱、神の本気さが預言書には溢れているのだ。
「完全な者になりなさい」 舛田基一牧師
聖書 2コリント13章11-13節
終わりに兄弟たち。喜びなさい。
完全な者になりなさい。励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。
1.どんな状況でもなくならない「喜び」なんて
あるのだろうか?
聖書はいつも喜んでいることができると約束
する。本当だろうか?
すぐに消えたり失われたりするとしたら、
それは聖書がいうところの喜びではないとい
うことだ。
喜べないことは日々ある。おもしろくない
こと、思い通りいかないことだらけだ。しかし、
私たちの事情によって左右されるような喜び
のことではない。気分でもない。
私たちにとって人生最大の最高の喜びとは
何か。それは主イエスの救いを受けたという
ことではないか。こんな私が、汚れきった罪人
が救われた。あり得ないことが私の身におこ
った。
救いのしるしは体と心と魂に刻まれているのだ。
救われてから、一度もそのしるしは消えなかった。同じ喜びが続いているのだ。
聖書 ルカ 6:27-36
しかし、わたしの言葉を聞いている
あなたがたに言っておく。敵を愛し、
あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
敵を愛すること 敵に親切にすること
好き嫌いの感情に従っている限り、敵を愛す
ることはできない。自然に生まれてくる感情
レベルの話ではないということだ。腹がたっ
たから?した。
むかついたから?してやった。当然の権利の
ようになってないか?
相手に対する良くない感情を自分の行動基準
にしている限り、キリストの言葉は単なる理想
で終わってしまうだろう。
キリストは無理難題を言われるお方ではない。
信じ難いが・・お言葉ですから網を降ろします
〔ルカ5章〕という態度さえあればよいのだ。
できるできないの問題ではない。神の命令とし
て受けとめることだ。
決心することだ。
私たちの側で勝手に無理だ、あり得ないと決め
つけてはならない。
自分の小さな感情世界を超える生き方がないと思ってはならない。
キリストに出会う時、私たちは古い自分の生き方が
揺さぶられ新しい生き方へと導かれる。
新しい生き方(キリストに従う)は本当に楽で自由だ。
「漁師を召されるお方」 舛田基一牧師
聖書 ルカ5章1-11節
沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。
? 主イエスの命令は徹夜で疲れていたペトロ
たち漁師にとっては常識はずれでナンセンス
なものであった。漁は夜にするものであり、
沖(深み)は魚がいないのである。
しかも主イエスは宗教の先生ではあるが、
漁に関しては全くの素人。しかし、ペトロは
従ったのである。
主イエスの神の言葉は人の生きる現実に対
して’挑戦’と感じられることがある。
私たちは知らなければならない。
時に神の言葉は私たちの常識や経験を揺さぶ
る。主のお考えはしばしばわからない。
しかし、主の言葉に従う時、私たちは大きく
変えられる時なのだ。
「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」
あなたなら網を降ろすか?止めるか?
今一度考えてみよう。