「メッセージ・あかし」カテゴリーアーカイブ

「いちいち気を使うな」

 

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「いちいち気を使うな」 舛田基一牧師

聖書 ルカ12:22-34

 「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと

考えてはならない。また、思い悩むな。」

 

1・なぜ人は思い悩むのでしょうか?

「悩」という漢字の意味は、心と脳の両方が”羨(う

らや)む””恨めしい”というマイナス感情に振り回

されること。

 自分は完全でも完璧でもないのに、心の中では

「・・人生は失敗してはならない。失敗するはずが

ない。・・・欠点なんてあってはならないんだ!」こ

のようなこだわりが頭に強く刷り込まれているので

す。自分の欠けを素直に認めず、他人を見て羨まし

いなったり恨んだりするのです。

 

27節         野原の花がどのように育つかを考えてみな

さい。

ソロモン王の豪華な服より野原の花には

神の輝きが備わっています。

自分の不完全さを気にして思い悩んでも、

安心は訪れません。

神が私の必要はすべて知っておられると信じて、

まず安心してみること。心を神様にお任せしまし

ょう。

 

5月の祈祷と聖句

5月の祈祷

慈しみ深い神よ。生きることの困難と困惑に打ちひしがれ、希望を失おうとしている人々を支えて下さい。苦しみを耐え忍ぶ力を与えて下さい。

 

5月の聖句

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、

あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる

ことができる。  (出エジプト20:12)

 

 

「恐れるな、復活なさった」

 

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「恐れるな、復活なさった」 舛田基一牧師

    聖書 マタイ 28:1-10

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、

あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ。」

 

1) 誰も破ることができなかった死の支配をキリストは完全に乗り越えられました。私たちの前にいつも不気味に立ちはだかり、決して動こうとはしなかった大きな山が動いたのです。それがイースターです。最初のイースターの朝、喜びも賛美もありませんでした。弟子や婦人たちの驚きと恐れでした。

 

  マルコ 16:8 「震えあがった・・」

  マタイ 28:4 「恐ろしさのあまり震え上がり

           死人のようになった・・」

 マルタも復活は死後の話だと思っていました。

  ヨハネ 11:24 「終わりの日の復活の時に復活することは

           存じております。」

 

2) キリストの復活は死んだ者も生きている者も皆同じ命を生きるようになるという神の約束です。いつかは尽きる今の命(寿命)ではなく、キリストの命に私たちの生命を重ねるということです。キリストの命の確かさを感謝してハッピーイースター!

 

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(写真は、イースタ子供聖歌隊 )

 

「シモンよ、シモンよ」

イースターエッグの写真

イースターエッグ

 

「シモンよ、シモンよ」 舛田基一牧師

 

 聖書 ルカ22:31-34

「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。

だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

1・シモンは昔の名前です。

主イエスは罪と弱さのゆえにせっかくペトロ(岩)となったのに、古い人(シモン)に戻っていくのを見られたのでしょう。

四回の警告(ヨハネ 13:36  マタイ 26:31  ルカ 22:31  マルコ 14:30)をペトロたち弟子は退けました。自分の力ではサタンに抵抗できないことを認めませんでした。

弱い自分を受け入れて、主に助けを求めませんでした。主イエスはこの時、「あなた方が試みにあわないように祈る」とはおっしゃらなかったのはなぜでしょうか?

 「信仰がなくならないように祈る」と言われました。試みにあう事よりも、信仰がなくなることのほうが大問題だからです。どんな試みがきても、信仰さえ失わなければ、必ず立ち直るのです。

 イエス様は私たちがいろいろな試練に直面する時、必ず祈ってくださることを忘れてはなりません。

 

 

 

4月の祈祷と聖句

4月の祈祷

復活の命を与えられたイエス・キリストに、私

たちの生命を重ねることがゆるされている恵みを感謝いたします。

 

4月の聖句

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

(ヨハネ11:25)

 

 

「真ん中に立つイエス」

 

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「真ん中に立つイエス」 舛田基一牧師

 

聖書 ヨハネ20:19-23

  『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子た

ちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵

をかけていた。

 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた

がたに平安があるように」と言われた。』

 

1・     復活されたイエス様が御姿をあらわしてくださ

いました。いままでと同じ主イエス様ですが、違

いは復活された姿であらわれたということです。「真

ん中に」と訳されています。

 コミュニティーの真中を選んで入って来られたの

です。そこには行き詰り絶望に沈む弟子たちがいま

した。ユダヤ人を恐れ、心を固く閉ざしていました。

誰も寄せ付けない雰囲気でした。最もキリストに

相応しくない空気が満ちていました。

 しかし、キリストは彼らを導くために、疑うもの

を信じるものに変えるために、真の兄弟姉妹と呼び

合える交わりへ回復させるために来られたのです。

 

 教会の交わりは「礼拝・祈り・奉仕」が特徴です。

共に礼拝をささげ、共に祈り、共に仕える。

 それはキリストの「平安があるように」に支えら

れているのです。

 

3月の祈祷と聖句

 

「3月の祈祷」

キリストの生き方が私の主の生き方であるように、優しい心を配り与える者として下さい。

 

「3月の聖句」

 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。

たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手で

あなたを支える。       (イザヤ41:10)

 

 

「マラナ・タ その2」 


「
私パウロが、自分の手で挨拶を記します。
主を愛さない者は、

神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」

                      聖書 ?コリント16;13-24

 

1、本気の愛

パウロは手紙の最後を自筆でしるしました。一番大切なことを伝えるために。

それは、神様を愛すること。主イエスを愛することでした。多くの問題を抱えていても、

神様を愛することだけは忘れてはならないのです。

 本気で神様を愛することをパウロは求めました。本気であるからこそ、愛さない者は神

から見捨てられよ!と言い切ったのです。

 普通、手紙の最後にこのような言葉は書かないでしょう。いつもパウロは本気でした。それは、主イエスが本気の愛を示して下さったからです。

 

2、マラナ・タ

最初の教会では、アーメンとハレルヤとマラナ・タが礼拝の言葉でした。主よ来てください!と賛美し祈りました。希望のゴールはイエス様との再会でした。

 この姿勢は今も同じです。日曜礼拝ごとに、私たちはマラナ・タを願って祈るのです。

 

3、私の愛

 パウロは愛に生きる人でした。言葉、行動、執筆のすべては愛を動機としていました。コリント信徒への手紙は熱烈な愛の書です。

「マラナ・タ」

 

聖書 1コリント16;13-24

「アジア州の諸教会があなたがたによろしくと

言っています。アキラとプリスカが、その家に集

まる教会の人々と共に、主においてあなたがたに

くれぐれもよろしくとのことです。」

 

1・パウロを支えた人々

 アキラとプリスカ夫妻は全面的にパウロの

宣教を支えていました。コリント書のラストから

は、パウロがチームで動いていたことがわかり

ます。一人で十人分働くよりも、十人を育て、

共に働け!です。

伝道者アポロに対しては

キリストをもっと正確に語るように指導しています。

(使徒言行録18:24)

当時、驚くことに信徒が若い伝道者たちを単に経済

的に支えていたのではなく、もっと大きな役割を果

たしていたのです。

雄弁なアポロでしたが、伝道者としての弱点をこ

の夫妻は見抜き、実際に教育・指導まで行っていた

のです。使徒言行録の時代、驚くことに信徒が若い

伝道者たちを一人前の伝道師・宣教師牧会者に育て

上げる役割を果たしていたのです。

日本では信徒は遠慮して牧師に意見できないこと

があります。儒教の影響でしょうか、生徒が教師

を教えることなどタブー視されてきました。しかし、

本当に教会が強くなるためには、実を結ぶためには、

正しくキリストを伝えるためには、アクラやプリス

カ夫妻のように主の器を鍛えることが必要なのです。

パウロはワンマンでもカリスマでもありません。

謙虚に信徒の声に耳を傾け、感謝し、共に神の

家族として宣教に励みました。自分を育ててくれた

のが普通の信徒であることを伝えたくて、1コリン

ト16章にはその名が多く記されているのです。

 

 

舛田基一牧師

裏切る者と主イエスその2

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教会の庭のバラが咲きました。



聖書 ヨハネ13:18-30

事の起こる前に、今、言っておく。

   事が起こった時、『わたしはある』という

   ことを、あなたがたが信じるようになるた

めである。 

 

  ヨハネの福音書には「私は…である」という

定型文が多くみられます。単なる自己紹介ではなく、

他の偽物との違いをはっきり際立たせるための強調

の意味が込められています。

 イエス様でなければ、愛する弟子の裏切りを知り

ながら愛すること.赦すことなどできなかったでし

ょう。

 最後の最後まで愛し抜かれた(13:1)ことを私た

ちは信じなければなりません。人の普通の感覚では

キリストの愛と赦しは理解できませんから、ただ聖

霊の助けに導かれながら本当のキリストの人格と出

会います。

 他の人が…でも、私は絶対にあなたを見捨てない

し裏切らないよ。あなたが私を捨てても、私はあな

たを最後の最後まで愛し抜くよ。そのようにキリス

トは力強く「私は…である」ことを、罪人に惜しみ

なく明らかにされるのです。

出エジプト3/13「わたしはあってあるものだ」の

言葉は、罪人を救うキリストの中に成就したのです。


舛田基一牧師