メッセージ・あかし」カテゴリーアーカイブ

「復活の命に包まれて」

 

「復活の命に包まれて」舛田基一牧師

聖書 ローマ8:31-39

 では、これらのことについて何と言ったら

      よいだろうか。もし神が私の味方

     であるならば、だれがわたしたちに

      敵対できますか。

 

?死の力に対して全く無力であり弱者であった

私たちに、神はキリストを惜しみなく与えら

れた。

キリストを信じるものは十字架と復活の恵みに

あずかる。

 

今はキリストにある私と言えるのだ。

どんな厳しい戦いであっても弱い者であっても

人間的弱さに縛られていても、一旦強い味方を

得るならば負けることはない。要は誰が味方か

を知ることである。

 

人生にキリストをお迎えした。これ以上心強い

ことはない。

 

新共同訳では「私たちは、私たちを愛して下さ

る方によって輝かしい勝利を収めています」

ローマ8章37節

 同じところを”勝ち得て余りあり”と口語訳

聖書は表現した。

力強い訳で私は口語訳の方が好きである。

 

私は弱い、でも

キリストが味方であるならば”勝ち得て余り

あり”である。負けることはない。死に対しても。

ハレルヤ!

    

 

 

 

 

4月の祈祷と聖句

4月の祈祷

私たちにまことの悔い改めを与え、すべての罪と怠りと

過ちを赦して下さい。み言葉に従って行いを改めるために、

聖霊の恵みをお与え下さい。

 

4月の聖句

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

(ヨハネ8章32節)

 

 

 

 

 

 

「こころを刺し貫かれて」  舛田基一牧師


冬から春へ.jpg


冬から春に(ジュニアキャンプの雪だるま)


聖書 ヨハネ19章25-31節

   イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子

とを見て、母に、「婦人よ。御覧なさい。あな

たの子です。」と言われた。


1.主イエスは愛する母を忘れていませんでした。

十字架の苦しみに縛られている状態にありながら、

キリストは自分の痛みや悲しみよりも隣人のこと

を気にかけておられました。

「父よ彼らをお赦しください」

「あなたは私と共にパラダイスにいる」「婦人よ。」

キリストの十字架は切れてしまいそうな゛絆゛を

しっかりと結びつけるのです。神の家族を産みだ

し支えるのは十字架の恵みと赦しです。


シメオンの預言は残酷なものでした。(ルカ2章25節以下)

母として心刺し貫かれたでしょう。

愛する子が生贄(いけにえ)となってしまうのですから。

そんな母の涙を主イエスはすべて御存じでした。

家族のために苦しむ母を主イエスは取り成し、

安心して暮らせる道を備えられました。

  十字架には愛が溢れています。主の十字架を信じ

る者は心刺し貫かれる経験をしても慰められ希望

が与えられるのです。

ハレルヤ!

「労働の意味」

 

 聖書 テサロニケ3章 6-13節

 「主イエス・キリストに結ばれた者として

 命じ、勧めます。自分で得たパンを食べる

ように、落ち着いて仕事をしなさい。」

 

1・静かに働きなさい。黙々と働きなさい。

 落ち着いて仕事をしなさい。

 

 新改訳、口語訳、新共同訳などの訳です。

 リビングバイブル聖書訳ではこうなります。

 「じっくり腰を落ち着けて、まじめに仕事に

 精を出し、自活できるようになりなさい。」

 

 パウロは使徒の権利として、主イエスの

 教えにより(マタイ10章10節)伝道生活の

中で飲食の供与を受ける権利があることを

知っていましたが、彼はその権利をマケド

ニア地方においては福音宣教の妨げとなる

と判断します。

 そして、自らの手で働く道を選びました。

 信仰熱心のようにみえて、実は怠け者が

 大勢いたのです。落ち着きのない生活は

 結果的にキリストを証しすることも、教会の

 働きに益することもありません。

 

 憐れみ深い神様はキリスト信仰に生きる

ものたちの手のわざも大いに祝福してくだ

さいます。何のために働くのか、を明確に

    するとき私たちには落ち着きが備わります。

 

救われるべき名

ほかの誰によっても救いは得られません。

私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、
人間には与えられていないのです。
使徒4:1-13
ペトロとヨハネは、イエス様を十字架で
殺した人々の面前で(感謝報告)しました。
見たこと聞いたことを話さないわけにはいかない。
これが本当の証しです。
事実と経験をそのまま相手に伝える。
義務でも仕事でもない。
主イエスの名が迫害下においても広がり、
その名によって救いのわざが起こった理由の一つはここにあります。
救いはイエス様にある!
イエス様の名そのものが救いのしるしである。
ルカ23:34
イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください。

「手を置いて祈る」  舛田基一牧師

 

「手を置いて祈る」  舛田基一牧師

聖書 ルカ4:38-41

 「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ

 者を抱えている人が皆、病人たちをイエス

 のもとに連れて来た。イエスはその一人一人

 に手を置いていやされた。」

 

?安息日が終わりました。朝早くから主イエスは

会堂で奉仕されましたから、きっと夕方には疲れを覚えておられたでしょう。

しかし、主は働きを休まれません。会堂を出られてから近所のシモンの家で妻の母親(しゅうと)を癒されます。

 休む暇もなく、続いて多くの病人の癒しに全力を

注がれました。イエス様以上に忙しい方はいらっしゃらないのです。

 

4章40節「日が暮れると」は安息日が終わったことを意味します。ユダヤの暦では、一日は夕方から始まります。

参照⇒創世記1章5節「夕べがあり、朝があった」

 

安息日に遠慮していた人々は、安息日が終わってからぞくぞくとイエス様に助けを求め集まりました。

 

本当に助けと癒しを求める人にイエス様は惜しみなくご自身を与える方です。温かな心で接し、触れ、助けの手をさしのべてくださる方です。

 

2月の祈祷と聖句

2月の祈祷

今日耳に聞いた御言葉を心に深く植え、御恵みによって良い行いの実を結び、
御名の栄光を現すことができますように。
2月の聖句
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
(ヨハネ6章29節)

「洗礼のすすめ」  舛田基一牧師

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「洗礼のすすめ」  舛田基一牧師

聖書 ルカ3章1-6節

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

1・ 2節「神の言葉が荒れ野でザカリアの子

ヨハネに降った」

 神の言葉が降るとは、預言者の仕事が始まった

ことを意味します。権力支配が何重にも重くのし

かかった時代でしたが(ローマ皇帝・総督・領主・

大祭司)、そんなことは一切関係なく神のみ心がみ

言葉となってあらわされます。神の主権だけがす

べてに勝って優先されるのです。

自分の思いや政治思想を語るのが預言者ではな

く、たとえ人々が反発しようとも、神のメッセー

ジを伝える使命にバプテスマのヨハネは生きてい

ます。神の言葉だからこそ、恐れず語り続けるこ

とができました。

私たちは自分を見失っている時は人の言葉に左

右されていることがあります。必要以上の情報が

自分自身の一貫性を損なわせるのです。ヨハネは

全く逆でした。叫んだのです。神の側に立って!

信仰の道は神の言葉の主権の中で導かれていき

ます。迷った時は主の言葉を待ちましょう。主の

言葉が降る時が動き始める時です。

「12歳のイエス」

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       幼児祝福式礼拝

12歳のイエス」  舛田基一牧師

聖書 ルカ 2章41-52節 

    「どうしてわたしを捜したのですか。

   わたしが自分の父の家にいるのは

   当たり前だということを、知らなかった

   のですか。」


1  主イエスの少年時代についてはルカ2章にの

み記されています。12歳のイエスは心身が強くな

り、知恵が満ちています。

 神の恵みがその上にあり、神と人から愛された

とあります。私たちと同じ「成長」を経験してく

ださったのです。決して大人のような子供ではな

く、他の少年と同じであったのです。人と全部同

じになってくださるのです。人の性質を持ってお

られたからこそ主イエスの言葉は私たち人間の心

と魂に届くのです。

2    両親ヨセフとマリアは息子イエスと神との特

別な関係を十分理解していませんでした。行方不

明になったイエスを”自分の子供”として心配し

ています。親として当たり前のことですが、逆に

本当の親とは誰なのか?本当に子を養い育てる

のは誰なのか?が問われるのです。真の自立・成

長とは両親から離れ、父なる神との関係に目覚め

ていくことなのです。子どもたちの中心に「神様

と私」の世界がうまれてくることを信じて祈りま

しょう。

召天者記念礼拝







「そして彼は死んだ」  舛田基一牧師

 

聖書 創世記 51-24

 エノクは65歳になったとき、メトシェラを

 もうけた。エノクは、メトシェラをが生まれた後、300年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。

 エノクは神と共に歩み、神が取られたので

 いなくなった。

 

系図には「長生き」と同時に「そして死んだ」

が繰り返されています。祝福のしるしである長寿

ではあっても罪に支配された人の現実があります。

 罪の支払う報酬は死です(ローマ623)

エノクは他の人に比べずいぶん短命ですが、「神と

共に歩む」生涯をおくり、死をしらないまま神のも

とに召されました。最後は「死」ではない特権はエ

ノクだけの恵みではありません。

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと

一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)

 主イエスは罪で死ぬ必要はない方でしたが、罪に

死ぬ私たちと共に十字架で苦しまれ、最後には死の

むこうにある平安を約束くださったのです。信仰に

よって生きたエノクのように、私たちも死の力に打

ち勝った主イエスと