「メッセージ・あかし」カテゴリーアーカイブ

「手を置いて祈る」  舛田基一牧師

 

「手を置いて祈る」  舛田基一牧師

聖書 ルカ4:38-41

 「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ

 者を抱えている人が皆、病人たちをイエス

 のもとに連れて来た。イエスはその一人一人

 に手を置いていやされた。」

 

?安息日が終わりました。朝早くから主イエスは

会堂で奉仕されましたから、きっと夕方には疲れを覚えておられたでしょう。

しかし、主は働きを休まれません。会堂を出られてから近所のシモンの家で妻の母親(しゅうと)を癒されます。

 休む暇もなく、続いて多くの病人の癒しに全力を

注がれました。イエス様以上に忙しい方はいらっしゃらないのです。

 

4章40節「日が暮れると」は安息日が終わったことを意味します。ユダヤの暦では、一日は夕方から始まります。

参照⇒創世記1章5節「夕べがあり、朝があった」

 

安息日に遠慮していた人々は、安息日が終わってからぞくぞくとイエス様に助けを求め集まりました。

 

本当に助けと癒しを求める人にイエス様は惜しみなくご自身を与える方です。温かな心で接し、触れ、助けの手をさしのべてくださる方です。

 

2月の祈祷と聖句

2月の祈祷

今日耳に聞いた御言葉を心に深く植え、御恵みによって良い行いの実を結び、
御名の栄光を現すことができますように。
2月の聖句
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
(ヨハネ6章29節)

「洗礼のすすめ」  舛田基一牧師

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「洗礼のすすめ」  舛田基一牧師

聖書 ルカ3章1-6節

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

1・ 2節「神の言葉が荒れ野でザカリアの子

ヨハネに降った」

 神の言葉が降るとは、預言者の仕事が始まった

ことを意味します。権力支配が何重にも重くのし

かかった時代でしたが(ローマ皇帝・総督・領主・

大祭司)、そんなことは一切関係なく神のみ心がみ

言葉となってあらわされます。神の主権だけがす

べてに勝って優先されるのです。

自分の思いや政治思想を語るのが預言者ではな

く、たとえ人々が反発しようとも、神のメッセー

ジを伝える使命にバプテスマのヨハネは生きてい

ます。神の言葉だからこそ、恐れず語り続けるこ

とができました。

私たちは自分を見失っている時は人の言葉に左

右されていることがあります。必要以上の情報が

自分自身の一貫性を損なわせるのです。ヨハネは

全く逆でした。叫んだのです。神の側に立って!

信仰の道は神の言葉の主権の中で導かれていき

ます。迷った時は主の言葉を待ちましょう。主の

言葉が降る時が動き始める時です。

「12歳のイエス」

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       幼児祝福式礼拝

「12歳のイエス」  舛田基一牧師

聖書 ルカ 2章41-52節 

    「どうしてわたしを捜したのですか。

   わたしが自分の父の家にいるのは

   当たり前だということを、知らなかった

   のですか。」


1  主イエスの少年時代についてはルカ2章にの

み記されています。12歳のイエスは心身が強くな

り、知恵が満ちています。

 神の恵みがその上にあり、神と人から愛された

とあります。私たちと同じ「成長」を経験してく

ださったのです。決して大人のような子供ではな

く、他の少年と同じであったのです。人と全部同

じになってくださるのです。人の性質を持ってお

られたからこそ主イエスの言葉は私たち人間の心

と魂に届くのです。

2    両親ヨセフとマリアは息子イエスと神との特

別な関係を十分理解していませんでした。行方不

明になったイエスを”自分の子供”として心配し

ています。親として当たり前のことですが、逆に

本当の親とは誰なのか?本当に子を養い育てる

のは誰なのか?が問われるのです。真の自立・成

長とは両親から離れ、父なる神との関係に目覚め

ていくことなのです。子どもたちの中心に「神様

と私」の世界がうまれてくることを信じて祈りま

しょう。

召天者記念礼拝







「そして彼は死んだ」  舛田基一牧師

 

聖書 創世記 5章1-24節

 エノクは65歳になったとき、メトシェラを

 もうけた。エノクは、メトシェラをが生まれた後、300年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。

 エノクは神と共に歩み、神が取られたので

 いなくなった。

 

系図には「長生き」と同時に「そして死んだ」

が繰り返されています。祝福のしるしである長寿

ではあっても罪に支配された人の現実があります。

 罪の支払う報酬は死です(ローマ6章23節)

エノクは他の人に比べずいぶん短命ですが、「神と

共に歩む」生涯をおくり、死をしらないまま神のも

とに召されました。最後は「死」ではない特権はエ

ノクだけの恵みではありません。

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと

一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)

 主イエスは罪で死ぬ必要はない方でしたが、罪に

死ぬ私たちと共に十字架で苦しまれ、最後には死の

むこうにある平安を約束くださったのです。信仰に

よって生きたエノクのように、私たちも死の力に打

ち勝った主イエスと

11月の祈祷と聖句

11月の祈祷

私たちを教えるために聖書を記された主よ。

どうかこれを聞き、読み、学んで魂の養いとさせて下さい。

み言葉によって強めて下さい。


11月の聖句

“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください。」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい。

(ヨハネの黙示録 22:17)



「主の庭を慕って」  舛田基一牧師

 

聖書 詩編84・1-5節

 「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうで

す。命の神に向かって、わたしの身も心も叫び

ます。」

 

1・賛美礼拝

神様の恵みを受けた私たちは”黙っていられない゛

おもいから神様に賛美を捧げます。

 

主の庭を慕う〔84編3節〕の「慕う」という言葉は

人が愛する者に対して心ひかれて自分の思いを相手

に届けようとする意味です。

 

相手を慕うあまり自分のすべてをかけてでも応答し

ようとする強い姿勢があらわれています。

愛される喜びが相手を慕う思いへと広がります。

これが賛美です。そんな思いでこれからも、いつま

でも教会で神様に賛美しつづけましょう。

10月の祈祷と聖句

10月の祈祷

 

 主(しゅ)イエスキリストは私(わたし)たちに「受(う)けるよりも与(あた)えるほうが幸(さいわ)いです」と教(おし)えられました。主にならって寛容(かんよう)の精神(せいしん)と私心(ししん)のない奉仕(ほうし)によって常(つね)に主の栄光(えいこう)をあらわせますようにお助(たす)け下(くだ)さい。

 

 

10月の聖句

 

わたしが清(きよ)い水(みず)をお前(まえ)たちの上(うえ)に振(ふ)りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れ(けが)とすべての偶像(ぐうぞう)から清める。

          (エゼキエル36:25)

「女預者アンナ」   舛田基一牧師

 

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聖書 ルカ2章36-38節

    夫に死に別れ、84歳になっていた。

        彼女は神殿を離れず、断食したり

        祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた…

 

神殿という聖なる場所ではじめて主イエスさまを

救い主と認め礼拝したのは高齢者シメオンとアンナ

です。「この僕を安らかに去らせてくださいます」と

ありますが、救いにあずかり福音を信じた者の姿が

ここにあります。人生の終盤ですが心満され、喜びと

平安があふれています。

 

信仰生活に引退はありません。神様は高齢者を用いて

下さいます。生涯現役で神の家(教会)に集まり、祈り、

賛美します。それは若い人たちの人生の目標となり信仰

者の模範となります。

 

アンナさんは夫と死に別れてから長い年月ひとりで

過ごしてきましたが、彼女の心の中心は「寂しさ・虚し

さ」ではなく「救い主を待ち望む」という希望でした。

 

老いてなおその希望が彼女を支えたのです。

いつまでも残るものはイエス・キリストにある

「信仰 希望 愛」です。

「なぜ笑ったのか」  舛田基一牧師

 

聖書 創世記 18章1-15節

    「サラはひそかに笑った。自分は年を

        とり、もはや楽しみがあるはずもなし、

        主人も年老いているのに、と思ったから

        である」。

 

1.アブラハムやサラの信仰をほめたたえることが

創世記の目的ではありません。神の救いを与える

という約束も人を導こうとされる神の忍耐も、弱い

人間の小さな小さな信仰をはるかに超えて力強い

ということです。

 

 18章14節「主に不可能なことがあろうか」

 

信仰の最高モデルといわれるアブラハム・サラ夫妻

ではあっても神の約束を笑いました。本気で信じき

ることはできませんでした。それを神様は知ってお

られましたが、怒らないで彼らを憐れんでくださっ

たのです。

信仰がどれだけ強いか立派かではなく、「罪汚れが

いや増すとも主の恵みもいや増すなり」<新聖歌376>

といえる方が幸いなのです。