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「苦難と感謝 その2」

 

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「苦難と感謝 その2」  舛田基一牧師

 


 2コリント1;8-11

「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでし

た。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復

活させてくださる神を頼りにするようになりまし

た。」

 

1・パウロは神信仰を語る上で、自分の苦しい経験

も合わせて「ぜひ知っていてほしい」と言いまし

た。8節を直訳すると「知らないでいてほしくな

い」。

伝道旅行での痛々しい実体験が?コリントには記

録されています。信仰者としての武勇伝でも美談で

もなく、苦しみの中で神への信仰すら揺れ動いてい

るのです。

 しかし、パウロはこの苦しみを経ないとわからな

いことがあった!この試練の嵐の中で神信頼を学

んだ!というのです。

 キリストに従う者が体験する苦しみは、本当の意

味で人を励ます力となります。

 死者を復活させてくださる神を頼りにする(9節)

は、パウロの実体験なしには語れない言葉です。神

共にいる生涯は苦難の中でも新しい希望が与えられ

ます。

神からの慰め、希望はキリストへの信仰を確信に

導きます。ハレルヤ!        

       

                

『神に愛されてる子供として』

『神に愛されてる子供として』

聖書:エフェソ5:15 舛田信一牧師

 

まず第一に「あなたがたは神に愛されている子供ですから神に倣う者となりなさい」です。

 

何事も実行に移す原動力はその動機にある。と言われる。この神に倣うの「倣う」はミメオマイで修辞学で使われる言葉である。修辞学は理論、模範、練習の三要素から成る。子は親の真似をして育つ。子は親の愛を肌身に感じて育つ。父の厳しさの中に自分を保護し愛をもって育む親の責任感を身をもって学びとるのである。「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)。父たるものがキリストの愛を体験的に知ることによって子は倣う者となる。

 

 第二に「あなたがたも愛によって歩みなさい」

目に見えない神を愛するとは、キリストによって現された贖罪のみわざ、ここに愛がある。(ヨハネ第一4:10)。このことは十字架によって表明された。それ故昔の聖徒は「十字架を愛して我は生きまた死せん」と歌った程である。

 

 第三に「愛のうちを歩むこと」

それが神に倣うことである。愛は惜しみなく奪うことではなく与え尽くすことである。1941年コルベ神父は「愛のないところには愛をつくりださなくてはならない」とアウシュビッツの餓死刑に処せられようとする友に代わって自ら刑に甘んじた。

 

 第四にエフェソ5:1から「神に倣う」とは神の肖像画になりなさいということ。「御子が現れるとき御子に似た者となるということを知っています」(ヨハネ第一3:23)。

結論 : 御子に倣う者にさせていただこうではないか、アーメン

5月の祈祷と5月の聖句

祈り

 すべてのものをいつくしみ育ててくださる神よ。

教会に集う幼子、幼児をかえりみ、喜びと希望をお与えください。

 

        聖句

「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

イエスは答えて言われた。

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

     
(ヨハネ6:2829)

「苦難と慰めと感謝」

2コリント1:1-7

「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、

わたしたちも神からいただくこの慰めによって、

あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるのです。」

 

慰める神

慰めの原語は「あなたの傍らに来る、そばに招く」です。

主イエスは聖霊をヨハネ福音書14;16で「もうひとりの助け主」と言われましたが、

この言葉の語源は慰めという意味です。

自分の身に降り注ぐ試練の経験も隣人を励ます愛の行為に変えられるのです。

苦しみを共に分かち合うために聖霊がそばに来てくださるように、

自分の苦難の経験はキリストにあれば無駄ではなく、人を支える力に変えられるのです。

 

キリストの苦しみ

教会はキリストの体ですが、体の一部が苦しめば全体も同じように痛みを覚えます。

キリストに従うものは、キリストの苦しみも同じように受けるのです。

パウロはなぜ苦難の中でも強かったのか。その理由はここにあります。

 

キリストの苦しみを受けるものは、キリストの慰めを受けるからです。

教会は苦しみと慰めを共にする場所です。

 

舛田基一牧師

                                                          

 「主イエスの朝食」  

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「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
・ ・・「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言
われた。」

?ガリラヤ湖の漁を終えて
イエス様は疲れて漁から戻ってきた弟子たちのために朝食を用意されました。主からのプレゼントでした。炭火が赤々と燃えて、そこにおいしそうな魚とパンがありました。
まだ元気のないペトロたちでしたが、主イエスの朝食は心と体への主の配慮でした。同時にペトロはもしかしたら罪深い経験を思い出したかもしれません。

〈大祭司の中庭でイエス様を知らないと三度言った時、ペトロは火にあたっていた マルコ14:67 ルカ22;55-56〉

しかし、主は裏切ったペトロたちの日常生活の中に、入ってきてくださったのです。過去のさまざまな罪の失敗や絶望、不安を抱えている者の隣人となり共に食卓を囲み、励まそうとされるのです。

「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」復活された主イエス様の言葉です。あなたの食卓を整えるのはこの方です。いつでもそこから新しい道ははじまるのです。

『新しい生き方の勧め』

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【先週のメッセージ要旨】

『新しい生き方の勧め』

聖書:エフェソ4:25〜32      舛田信一牧師

(一)「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」(25節)。この「真実」は原語では「真理」と同義である。それ故隣人に対する真実がキリストにある真理と結びつくかどうか検討すべきである。我らの考える真実とは往々にして主観的な場合が多い。

(二)この真理の背景は『「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実でありそのまま受け入れるに値します』である。(テモテ1:15

(三)「偽りをすて」とは単にうそをつくなということではない。ここでの「偽り」とは「真理」に対して偽りを指している。主イエスは「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)又大祭司アンナスの前でのペテロの「ほかのだれによっても、救いは得られません」(使途4:12)との言葉に対してキリストを否定し受け入れようとしないかたくなな心を指している。

(四)以上のこと、つまり真理、真実を語りなさいということは個人の信仰問題であると同時に、教会全体の問題なのである。十字架と復活によって救いと永遠の命が示されたのだから贖われた教会として全面的に信仰告白し、思い切った生き方の方向転換をするべきなのである。

(五)律法として道徳を語るなら「怒るな、憤るな」となる。しかし恵みの座では「日が暮れるまで」と「時間」が置かれている。時間的ゆとりの中でキリスト者は待つことを学ぶ。ここに恵みに支えられつつ祈りつつ待つのである。神の恵みは真理にしっかりと立つ者の上にそそがれる。ここに新しい生き方がある。アーメン

 

『最も大切なこと』

【先週のメッセージ要旨】

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 「最も大切なこと」  舛田基一牧師

              一コリント15:12〜19

「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。・・この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

 

1:旧約聖書の約束とイエス様の約束は、復活の事実によって成就しました。

十字架と復活はひとつです。罪の赦し(十字架)と新しい命(復活)の

約束は復活によってキリストの救いが完全であることが証明されたのです。

 

2:コリント教会のある人たちは死者復活はないと主張していました。

おそらくギリシャ哲学の影響から、魂(霊)はきよいが肉体(体)は

汚れているという考えが背景にあったのでしょう。肉体は滅ぶが魂は

永遠だという考えです。しかし、復活の出来事そのものがそのような考えを

否定しています。キリストの復活は魂だけの復活ではなく体も心も

伴った復活でした。人間存在全体が神の力によって完全に復活するのです。

キリストの復活を正しく伝えることが初代教会の「最も大切なこと」でした。

 

 

 

『真理を見つめつつ歩め』

エフェソ4:17~24   舛田信一牧師

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使徒パウロの「主によって強く勧めます。」の言葉に注目しよう。その強く勧めた訳は教会員の中に「異邦人と同じように歩んでいる」キリスト者がいたことを意味している。それ故「異邦人と同じように歩んではならない」という勧告を真剣に聞くべきである。
1、キリスト者の在り方、生き方の基盤
コロサイの信徒への手紙3:1〜10を読む。それだから「以前のような生き方をして情欲に惑わされ滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てた」のであるから「神にかたどって造られた新しい人を身につけなさい」古い人を脱ぎ捨てた、だから新しい人を身に着けなさい。一見して矛盾するようです。
2、キリスト者の二面性ーーー既にと未だ
キリスト者は信仰の歩みにおいて既に得たと未だ到達していないと言う現実のはざまにある一種の緊張関係に立っている存在である。これがキリスト者の現実であり二面性である。
3、異邦人のように空しい心で歩んではならない。では異邦人の空しさとは何でしょうか?それは人生の目標においてである。キリスト者の目的は真理である。真理とは何ぞやとピラトは問うた。(ヨハネ18:37)その問いは全人類の問いでもある。イエスは直後十字架上で贖罪の死を遂げられた。エフェソ4:21.主イエスキリストの十字架によって示された父なる神の贖罪の愛こそ永遠の真理なのである。
結論 あなたにとって、私たちにとって贖い主イエスキリストが永遠の真理になっているか自問自答していただきたい。

『キリストのそばに No.2』  

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「キリストのそばに No.2」  舛田基一牧師


          
マルコ3:13〜19

 

 1:12弟子の名前リストにはどんな意味があるのでしょうか。

注目するべき言葉は「名付ける」〈14節、16節、17節〉です。

→直訳では「名をおく」

 新約聖書の中でもここにしか用いられていない非常にめずらしい用語です。

キリストの弟子に対する特別な思いが込められています。名前を与えることに

よって新しい人生と新しい力を約束されているのです。

 

2:19節にはユダについて「裏切った」とあります。

この言葉の意味は「引き渡す」です。何かを手に入れる為に今もっているものを

捨てる時に使う言葉です。ユダは主から与えられるべき立場であったのに、

逆に主を他人に与えた(捨てた)のです。主イエス様はご自分をユダの手に

渡されたのです。ユダの手で自由にされる程に小さくなってくださったのです。

キリストは小さくなって、本当に私たちのそばに来てくださったのです。

 

二つの言葉は「与える」という意味で共通です。

あなたは主から与えられることを選びますか?

主を与える(捨てる)ことを選びますか?

 

4月の祈りの御言葉

 


祈り

わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。罪のうちにありました私たちを、主の恵みのうちに招き入れてくださったことを心から感謝いたします

 

御言葉

人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。 (コヘレトの言葉5:14)